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ssh1075 パークスとスイッツァーとバニラエア(4)〜クソリプと誤解と [三題噺]

<2018>


 10月11日に投稿したツイートは3000件以上リツイートされるというちょっと考えられないレベルの反響をもらいました。無名人が投稿した変な画像でもおもしろネタでもない文字だけのツイートに対しては過分なる反響です。

 どんなものでも母数が増えれば妙なものも多く混じってきます。ヘンテコな反応や、それちょっと違うよなあという反応も多数ありました。

 この記事ではそういうSNSにはありがちな「?」な反応について書かせてもらいます。


 妙な反応といえば、まずはいわゆる「クソリプ」ですね。

 ネット界には本当に困った人たちが「たくさん」います。「たくさん」とカギカッコに入れたのは、現実の人数はそれほどでもないのですが、多数のアカウントやIDを取得して似たようなものを多数送るケースが多いからです。

 ただバカみたいな話を投稿してるだけならただのバカということで放置しておいてもいいのでしょうけど、彼ら彼女らは他者の人権を踏みにじる不当・違法な書き込みを執拗に繰り返します。

 特にひどいのが近隣国に対する差別です。韓半島や中国に対して目を覆うようなひどい差別攻撃をします。いわゆるヘイトスピーチです。在日外国人の人権を守ろうみたいなツイートを書くと途端に、誘蛾灯に蛾が集まるようにウヨウヨと差別屋が寄ってきます。

 私はこういう差別屋を発見した場合、問答無用でツイッター社に通報しています。利用者規定に違反しているからです。


 くだんのツイートは高校生がローザ・パークスの件についてあまりピンと来なかったみたいだという内容ですから誘蛾灯としての性能は低いはずなんですけど、それでも妙なのはありました。分類してみますと、


1 ルールに従うのは当たり前のことだ

 こういう人は潜在的には相当いるのだと思います。でもね、差別とか弾圧ってのはその当時はすべて「合法」なんですよ。パークスにしても当時の運行規定違反として逮捕されたわけで、合法的な処置だったわけです。それが1年以上のバスボイコットを経て連邦裁判所が運行規定そのものを憲法違反と断じたことで合法ではなくなった。ルールそのものの正当性が問われているとき、ルールには従うべしと主張するのは相当トンチンカンな話です。


2 教師のくせに生徒に造反を焚き付けている

 ツイッター始めてからずいぶん言われるようになりました、「教師のくせに」って。差別屋って二言目にはこれ使うんですよ。同一人物の別アカウントかと思うくらい。学校の先生でない自分は何を言っても許されるとでも思ってるんですかねえ。社会人たるもの最低限の責任は同じでしょうに。そもそも造反を勧めてなんかいませんし。私はパークスにせよスイッツァーにせよバニラエアの一件にせよ、社会情勢によってはトラブルを起こさなければ何も変わらないことがあると伝えただけです。


3 教師が生徒を管理支配した結果のくせに何を言ってる

 他所のこと、例えば東京や大阪のことは伝聞程度にしか知りませんけど、こと当地については生徒の管理はむしろ不十分で、もっとちゃんと生徒のあれこれをチェックしたほうがいいと思うくらいです。



 一方、共感・同意を示してくれた方々にもけっこうな誤解がありました。


1 今の高校生は従順をもってよしとしている

 全然違います。これは別のツイートで反論しておきましたが、当該高3生はここ数年の生徒たちの中でも職員に自分たちの意見を積極的に伝えてくる気骨ある生徒たちが多い学年です。文化祭の日程変更を職員が検討した際に意見交換会を持ってくれと求め自分たちの気持ちを真剣にぶつけてきました。なかなかやるじゃないかという感じの生徒たちなんです。


2 安倍政権の強健支配がここまで進んだ

 これは次の記事で考察する予定ですが、高校生の変化は安倍政権誕生よりはるか以前、1990年代から起きていたと私は考えています。


3 教育基本法改正の影響

 これも現場の実感としてはノーです。変化の時期が合いません。


4 学校教育のそもそもの問題

 違うでしょう。そうだとしたら学生闘争なんか発生していないでしょう。


5 オウム事件を期にする日本社会の変化

 社会全体についてはこの指摘はわりと同意してます。オウム事件が日本社会に与えたインパクトは大きく、あれを境に他者への不寛容・排除や監視社会の受容などさまざまなマイナス方向の変化が発生したというのは説得力があります。ただ、オウムへの強硬な捜査が行われていた時期の高校生の反応はギャング団の摘発くらいの感覚だったように思います。誘拐殺人もサリンもイナカの高校生としてはわりと他人事だったような感じでした。松本や東京の高校生にとっては大ごとだったかもしれませんが。少なくともオウム事件当時とその数年後くらいまで、私が担当していた高校生は外向的暴力をよく働くバブル時代によくいたようなタイプでした。



 では一体なぜ、高校生たちはパークスやスイッツァーやバニラエアの件のようなある種意図的に起こされるトラブルを、権利を求めるための行動として積極的に肯定しないのか。ここまで書いた以上、私自身の考察を示さないわけにはいかないでしょう。

 ヒントは意外なところで見つかりました。現任校の過去数十年の進路資料です。


 高校生たちがルールに恭順な態度を(本心はともかくとして)外に向かって示すようになったのは、生存戦略なのではないか。単に食いっぱぐれないためなのではないか。というのが私の予測です。

 そこいらへんについては次回扱います。


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