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ssh1047 ホンネを正直に認めることと、そこに甘んじないこと [リテラシー・思考力]

<ssh469再掲>

 今回のテーマは「ホンネを正直に認めることと、そこに甘んじないこと。」
 これはすこし挑発的に言い換えると、
 タテマエとホンネは両方とも大事にせよ ということです。
 もっと言えば、
 首尾一貫するな、矛盾を甘受せよ ということ。

 ずいぶんとヘンテコなお話です。
 だって、一貫性のない主張は説得力がないと、sshでは常々言ってきたのですから。
 
 shiraも加齢で丸くなっちまったのでしょうか?
 いえいえ、とんでもない。
 タテマエとホンネを両立し、その矛盾を丸ごと甘受することで、初めて一貫した説得力のある意見は述べられるのですよ。


 1980年代というかなり古いネタですが、NHKで「暴力教師」という6回連続のドラマがありました。
 時任三郎演ずる熱意あふれる中学教師が、クラスのある男子生徒と階段の踊り場でもみ合いのようになり、生徒が階段から転げ落ちて大きなケガをする、というのがドラマの発端です。斉藤由貴演ずる雑誌記者の取材で教師が口にした一言が問題を大きくします。「体罰はやむを得ないものなんだ。」
 ストーリーはいじめの二重構造や親子関係のこじれも絡んであまり素直じゃない展開をします。で、当初はひどく悪意に満ちた記事を書いた記者が、第2回だか第3回だかで、こんなセリフを言います。

 「私、教師が嫌いなんです。」

 ドラマはここから、複雑に絡んだあれこれが少しずつ解きほぐされていくのですが、その中で斉藤由貴演ずる女性記者が状況を改善する方向に働きかけるようになっていきます。最初は叩いてやろうと悪意ムキだしで接していた教師たちに、彼女は徐々に理解を示すようになっていく。こじれた状況を収束するのに非常に大きな役割を彼女は演じます。

 で、そのスタンスの転換を象徴するのが、前述の「私、教師が嫌いなんです。」というセリフです。

 合理的に考えると、これは妙な話です。
 でも、私にはこのセリフがすごく納得できました。
 その時、彼女はタテマエの正義や大義で覆い隠して来た自分のホンネを吐き出したからです。
 自分のホンネを吐き出したから、他者との共感が生まれた。タテマエだけで他者とつながることは不可能です。

 他者とつながるには、共感が必要です。
 共感には、ホンネを認めることが不可欠です。

 ものを考えるということを誤解している人は多いです。
 考えるとは、「問い」を立てて、答えを探すことです。
 自らが「問い」を立て、自らがそれに答えなくてはならない。
 他人に問いをぶつけるだけでも、他人から発せられた問いに反論するだけでも、ものを考えていることにはなりません。

 この「問い」を立てて答えを探すという行為は、ちょっと妙な感覚を伴います。
 というのは、自分が立てる「問い」は、必ずしも答えやすいものではないからです。
 問うことに真摯になると、すごく答えにくい問いを立ててしまうことがあります。つまり自分で自分に無理難題をぶつけてしまう。
 答えを出す自分の立場を優先するなら、あまり答えにくい問いは立てない方がいい。そうすればあまり悩まずに済みます。
 悩まずには済むけれど、そうやって答える側の自分を甘やかしていると、徐々にクサクサした不快感がたまってきます。
 当然です。
 だって、自分が一番問いたいことを問うてないんですから。疑問が疑問のまま放置されたら、人はイライラします。それを自分でやっていればなおさらです。

 ネット界やメディアには、やたらと強い口調で他人を叱責する、というか、やたらとののしる人がいます。
 たぶん、イライラしているのでしょうね。自分で自分の一番の「問い」から逃げているせいで。
 まあ迷惑な話です。自分のテーマは自分で何とかして欲しいです。他人をどんなにののしったところで、イライラは消えないわけだし。


 リクツは理解できるけど、どうもイマイチ納得できないなあ・・・。
 あるいは、頭ではどうしていも賛成できないんだけど、気持ちとしては同感できる。
 あの人は好きなんだけど、今言っていることはどうも同感できない。
 あの人は好かないんだけど、今言っていることは結構賛成できる。
 好きだけど、賛成できない。
 反対だけど、好き。
 いろんなことと接していると、そういう状態になることがちょくちょくあります。

 そういう時は、ヘンにスッキリしようなどと思わないことです。
 そのスッキリしない状態を、そのまま受け止めるのがいいんです。
 なぜなら、それこそが、そういう一見矛盾したもの同士を説明できる、次元が一つ上の視点が生まれる土壌だからです。

 ただし。
 そういうのは、実に中途半端な気分です。落ち着きません。
 ガキや子どもには、そういう中途半端で落ち着かない気分が耐えられません。
 だからガキや子どもは「中途半端はダメだ!」とか叫んで、極に走ろうとします。
 それじゃダメなんですけど、まあ仕方ないですかね、ガキなんですから。

 例えば、日頃「学校が服装指導をするのは人権侵害じゃないのか」と主張している先生がいるとします。
 その意見そのものは合理的です。
 ある日、ド金髪をモヒカンにして両耳にピアスを4つくらいつけた生徒が登校してきたとします。
 で、その先生が「さすがにこれはやり過ぎだろうに」と思ったとしましょう。って、まあどう考えてもやり過ぎだわな。
 この時、もしこの先生が「いや、服装指導は人権侵害の疑いがあるから、私は指導はしない」と言ったとしたら、私はその先生を軽蔑しますね。
 だって、ただの居直りだもの。自分のイデオロギーを守るために、自分のホンネを握りつぶしているんだもの。

 「あのな、確かにオレは常日頃は服装は個人の自由だと言っていたよ。でもな、いくらなんでも今日のキミは非常識じゃないか?」とか何とか、歯切れの悪い指導に乗り出すのが、その先生の選ぶべき正しい道です。
 そういう歯切れの悪い指導に、初めてその先生ならでは新しい視点は生まれるんです。


 歯切れのいい明確でルールに則った指導こそが正義である、というのは、一応正論です。
 ただ、そういうのは、まあ小学校4年生くらいまでの正義です。
 子どももある程度大きくなって来たら、矛盾や相反ってものを学ばないといけません。


 理性や理論で何かを主張するというのは、とても大切なことです。
 しかし同時に、理性や理論ではどうにも納得できない感情的なホンネの部分というのも、とても大切なんです。
 どちらも大切です。
 だから、どちらかをないがしろにしないこと。

 理性理論をないがしろにすると、感情や感覚だけで動くガキになってしまいます。そういうガキを騙くらかして私腹を肥やそうとしている悪いヤツは世の中に山ほどいます。
 同時に、感情や感覚のホンネ部分をないがしろにすると、だんだん人間がおかしくなっていきます。理性のつじつまだけを合わせるために自分のホンネを否定するので、自分で自分を騙くらかすことになります。いずれ自分で自分を引き裂くことになってしまいます。

 どっちも大切なんです。

 理性とホンネ。
 スッキリしない、中途半端に行ったり来たりする自分。
 そういうものに耐えられるようになるのが「ものを考えられる」人間への第一歩です。
 それは、大人への第一歩でもありますし、
 よりレベルの高い意見を生み出すチャンスでもあるんです。
 

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